2021


2021,installationview,蓄積を/にたつ

片山初音と「場所」について

私たちは今どこに居るのだろうか。Googleアースを使えば自由にどこにでも行くことは出来る。しかし生身の身体は重力によって地表に引き寄せられ今ここという場所に留められる。

片山は学生時代から、土や木などの素材を使ったインスタレーション作品を制作しながら、徐々にそれらが実在していた場所について考察を巡らせてきたように思う。それは長野県木曽路で行われた「木曽ペインティングスvol.3夜明けの家(2019)」で見せた、空き地に穴を開けそこに煙突のような塔を立てた作品や、「2019年度武蔵野美術大学卒業制作展(2020)」で優秀賞を受賞したアトリエの床を数センチ上げた作品、また「個展/足の下のかたさ(2021)」で発表した、大きな倉庫の床一面に少しの風でもたなびくように敷かれた2枚の布と布の間を歩かせる作品からも伺える。では今回のFALでの作品はどのようなものになるのだろうか、片山は昨年の冬に青森県の白神山地を訪れた時に、その地下に流れる水について思いを馳せ、そこから今回の作品についての構想を得たようである。

私たちは常に場所と共にある。場所がなければどんな物も存在することすら出来ないだろう。とはいえ往々にして場所を付属的なものと捉え、主体であるものだけに関心を向ける。

場所の特性を表す〈ゲニウス・ロキ〉という言葉がある。土地の持つ精霊や地霊という意味合いだが、そこにある歴史や建物がつくりだす固有の雰囲気といってもいいだろう。そしてそれは共同体にも大きな影響を与えるものである。

片山は場所について思考を重ねる。そしてそれがどれだけ知らず知らずのうちに主体である私たちに影響を与えているのか、普段は気にもしないであろう足元にオーディエンスの注意を向けさせることによって、意識下にある場所という存在を思い起こさせる。

それは即ち場所を捉え直すことで共同体を視つめることになり、その奥にある主体を捉え直すということでもある。その様な試みを通して、初めて私たちは主体の自立についても考えを巡らすことが出来るようになるのではないか。片山の作品は静かにそのことを問いかけているようである。

2021年10月15日 

 丸山直文


水のない水辺から

冬に山歩きをしに行った。皆寒そうに駐車場からほど近い観光地化されたコバルトブルーの池を見ては引き返していったが、私は少し奥まで行くつもりだったので足早に脇の道を進んだ。

山の中には多くの湖があり、池、むしろ沼と呼ぶべきか判断つかぬものがほとんどだった。いくつも目にするうち、おやこれはさっきの沼ではないか、そう思う物も多く、まるで先ほどまでそこに腰掛けていた池や沼が一足先に発ったかのような不思議な感覚だった。そして特にここがゴールだという地点を得ぬまま、ぐるりとスタートした青い池へと戻ったのだった。

山歩きを終え、暖を取る為入った休憩所の案内図に私の湖や池が移動しているという感覚の答えがあった。この辺りには三十三の湖、池、沼があり、その多くはもともと一つの川だったというのだ。1704年に起きた大地震によって山が崩れ、堰き止められた川から形成されたと推測されている。私は興奮を覚えた。やはりあれらは一つのものだったのだ。表面に水として表れずとも私の足の下を目に見えぬ流れとして移動している。それは、はっとするものだった。

今まで歩いてきた山の中で幾度となく水の音を聞いてきた。それをどこかに川があると思ってきたが、あれらは足の下の音だったのではないか。

突然今自分が立っているそこが信頼と違う領域のものに思えた。急に足元に大きな穴が空いた様な、地に足がつかない恐怖に襲われ、地というものを無条件に信頼をしていたことを知った。いつからそこが疑い様のない地面、底面だと思っていたのか。その下に何があるのか何が起きているのか知らないのに。

これは気がついてしまえばどこにいても同じことだった。私たちは無意識に生活する地面をできるだけ強固で疑い用のないものにしようとしているが、その実知らぬ間に様々な地下空間の上に立っている。確かなものだと思われるその下に何があるのか知らず、ここが底面なのか天井なのかすらわからない。私の足は今、地についているだろうか。

片山初音

片山初音 個展「蓄積を/にたつ」

2021.11.18(木)-12.01(水)

FAL(The Fine Art Laboratory)

〒187-0032 東京都小平市小川町1-736 武蔵野美術大学2号館1階